公教育の本質的な意味

公教育の意味について、内田先生の興味深い指摘が掲載されていましたので、その一部をご紹介します。全文は、以下のリンク先に掲載されています。

内田樹の研究室

以下、部分的な引用です。

 できるだけ多くの子どもたちに教育機会を付与することの方が、金持ちの子弟だけしか教育を受けられない制度より国益を増大させ、共同体の存続に有利に作用することは間違いない。

 この実証的態度を私は多とする。

 けれども、このアメリカの公教育導入の「決め」の一言が「他人の子どもたちの教育機会を支援すると、金が儲かりますよ」という言葉であったことの本質的な瑕疵からは眼を背けるべきではないと思う。

 これは緊急避難的な方便ではあっても、公教育の正当性を基礎づける「最後の言葉」ではない。

 公教育の正当性は、「金」ではなくて、「いのち」という度量衡で考量されねばならないからである。

 できるだけ多くの子どもたちに教育機会を提供し、それをつうじて知性的・情緒的な成熟を促すことは、共同体全体が生き残るために必須である。誰それのパーソナルな利益を増減させるというようなレベルではなく、共同体成員の全員が生き延びるために教育はなされるのである。

 子どもたちを教育することは、公的な義務である。

 一定数の子どもたちが高等教育を受け、専門的な知識や技術をもち、それを活用することは、共同体全体の利益に帰着する。
だから公的に支援されるべきなのである。

 奨学金はそのためのものである。

 漱石の『虞美人草』には、人々の篤志によって授かった高等教育機会を自己利益のために利用しようとする青年が出てくる。
彼が受ける罰を詳細に描くことによって、漱石は明治に学制が整備されたその起点において、「教育機会を自己利益の追求に読み替えてはならない」という重要なアナウンスメントを行った。

 その効果はたぶん半世紀ほどは持続した。

 そして、いま消えている。

 教育行政も、子どもたちも、親たちも、教育を受けること、勉強することは「自己利益を増大させるためのものだ」と思っている。

 教育のコストは自己負担であるべきだというロジックはそのような世界においては合理的である。
 
 私が言いたいのは、「教育のコストは自己負担であるべきだ」というロジックが合理的であるような社会は共同体として「滅びの道」に向かう他ないということである。

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