The art of possibility

内田先生のブログでの発言は、「就活」の現状に関する極めて重要な指摘だと思います。以下に引用しますが、興味がある方は是非全文をご覧下さい。

問題は「きわだって優秀なわけではないが、育てようによっては、かなりいいところまで行きそうな潜在能力をもった人たち」(若者たちのボリュームゾーンを形成する部分)を日本社会が構造的に「潰している」という事実の方である。
「支援すれば、大きく花咲く可能性」のある若者たちを「支援し、激励し、国力の底上げをする」という事業に日本のエスタブリッシュメントはさっぱり関心を示さない。

「可能性がある」という言い方をしたが、それは「支援したけれど、才能がさっぱり開花しなかった」というリスクを含んでいるということである。

正直に言うけれど、この「可能性ある若者への投資」の回収率は決して高くない。

少年少女のときに「オーラ」を帯びていた多くの人たちが、しばらくして会ってみたら、「オーラ」を失っていたというケースを私たちは繰り返し見ている。
いつ、どうして、彼らがそのアドレッセンスの輝きを失ってしまったのか、理由はわからない。

外的条件がそう強いたのか、彼らの中で何かが「死んだ」のか。

高い確率で、生来の才能は枯死する。だから、「支援さえすれば、誰でも才能を開花させる」というのは経験的には事実ではない。

けれども、それは「だったら支援する必要がない」ということではない。

若々しい才能は脆く、弱い。

恐怖によって、恫喝によって、不安によって、花開く前に失われてしまう。

だからこそ、それは守らなくてはならない。

いくら手立てを尽くしても守り切れはしないけれど、それでもできるかぎり守らなくてはならない。

私は一教員としてそう思っている。

少年少女の開花可能性をもっとも傷つけるのは「自分の潜在可能性に対する懐疑」である。

そして、この懐疑は、査定され、格付けされ、「勝者には報酬を敗者には処罰を」というセレクションにさらされているうちに、焦燥と不安を栄養分にしてどんどん膨れ上がってゆく。

そういうことはやめてほしい、というのが教育の現場にいる一教師として私の願いである。

私はいまの雇用システムでは、「きわだって優秀な人間がそれにふさわしい格付けを得られない」ことよりも、「ふつうの子どもたちが絶えず査定にさらされることによって組織的に壊されている」ことの危険の方を重く見る。

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