「わかる」ということ。

野﨑昭弘先生の書かれた本「数学的センス」(ちくま学芸文庫)の中に次のような文章がありましたので、ご紹介します(引用の引用になりますが、ご勘弁ください)。

真実か否かの判断は、もちろん難しいことが多い。しかし現在、溢れんばかりの知識・情報に囲まれている私たちは、とかく断片的な知識だけでものごとが「わかった」つもりになりがちである。そのことに触れた画家・安野光雅の実に適切な談話があるので、次に引用させていただきたい(NHK教育テレビ「おかあさんの勉強室—木村治美の教育対談」より)。

この間、日本アルプスが見えるところまで行きましてね。山を見ていたんです。そうすると最もいけないと思っていることなんだけど、あの山なんていう山だいってこうなるんですよ、どうしても。あれは鹿島槍だよ……っていうふうにだんだん山の名前をいっていくわけね。ああそうなのかといって、僕はふとわかったような気がする。(中略)ところが鹿島槍なら鹿島槍ってのを本当に知るためにはね、その頂上をきわめないまでも少しはそばに行ってね、山間がどうなっているかとか花が咲いているかとか、雪が残ってたとか、いろいろな“感性”的な接近のしかたっていうのがなくっちゃ、言葉だけ知っていたってしょうがない。そういう意味で、一つの言葉を知るときは一つの感性とペアで覚えていてはじめて本ものになる。

(中略)

バスガイドが説明するのをきいていてね,何となくわかったような気がしてきたっていう日常が、だれにもあると思うんですよ。よく考えてみたらね、学校教育なんてものもそういうもんで、バスガイドの説明きいてわかったような気になっているってことは意外と多いんじゃなかろうか。

私たちは断片的な知識・情報に毒されて、正しい理解とか判断をしているつもりで実は何もしていない、という状態になりやすいのではなかろうか。だからこそ私たちは謙虚になって、「公理」を仮定と考え、仮定として吟味しなければならない。それこそがギリシャ人の自由な精神の真髄と考えられる。

引用されている安野光雅さんの言葉も、引用している野﨑昭弘さんの言葉も、忘れずにいたいと思います。

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